愛研創業のDNA~愛研の礎を築いた創業者たち~
愛研の礎を築いた創業者たちの功績とその素顔を紹介します。
前回までのコラムはこちらから↓
愛研創業のDNA~はじまり~
愛研創業のDNA~事業活動の変遷~
初代社長 平社俊之助氏の功績と思想
平社俊之助氏は、1934年東京都に生まれる。1956年東京農業大学を卒業後、東京大学医科学研究所に入所。ダニ、蚊、ツツガムシ、フィラリアなど多岐にわたり研究実績を残された衛生動物界の第一人者である佐々学博士(富山医科薬科大学学長や国立公害研究所所長を歴任)に師事し、殺虫剤の効力及び毒性学的研究を共に行い、東京大学にて医学博士号を取得する。
1967年、日本のODAのはしりとなるコロンボ計画により殺虫剤の専門家としてタイ国に派遣された。帰国後の1969年、薬剤製造会社の技術顧問として入社。1971年同社を退職した後、その会社の有志らと(株)愛研を興す。
氏は、初代社長として、それまでの人脈、交流を通じ、毒性試験やダニ試験を愛研の基盤事業の中心として築き上げた。設立当初は、想像するにまさに試行錯誤の連続であったに違いない。氏は、研究への探求心を晩年まで失うことなく、防虫紙の開発をはじめ、ダニ類などの衛生動物(害虫)に対する効力試験等を数多く考案し、学会等で研究成果を次々と発表し、その多くを学会誌や「愛研詳報」に論文としてまとめた。「愛研詳報」は、今日の愛研を築き上げた先人たちの技術と知見の明が如実に詰まった社内研究誌である。
氏は「人はいかなる場合においても常に平等である」という考え方を持ち、それを経営方針として実行した。「会社の利益は皆で稼いだもの、鉛筆一本でも、皆の了解が必要」という言葉でわかる様に、すべて全員で話し合い分かち合った。
そんな氏の思想と努力を後世に継承していくことは、私達社員にとって大きな誇りだと考える。
初代会長 宮崎光男氏の素顔と功績
宮崎光男氏は1926年名古屋市に生まれる。幼少の頃は大変な苦労をしたと聞く。一貫して技術畑に所属し、旺盛な好奇心、向学心と先を読む洞察力・想像力に優れ、職場では工場長の役職に就いた。1971年に薬剤製造会社を退職後、初代社長の平社氏らと共に、愛研を設立し、前回のコラムで述べたように、会社創立初期における収入源として、消臭剤、漂白剤、撥水剤(エアゾール)、天然洗剤など生活雑貨に類する薬剤製造に尽力した。また会社設立当時は、会社が住まいだった平社氏の銭湯として、マウスの飼育場所として自宅を提供するなど、人情に篤い温厚な人であった。
氏は、戦後日本を代表する写真家の一人、東松照明の実兄でもある。東松氏は専門雑誌のインタビューで「毎晩兄は、自分で作った兄しか開けられない組木細工のしかけのある『秘密の本箱』から冒険小説を取り出し、時には婦人のように、時には子供のように声色を使い分けて読み聞かせてくれた。幼い私はワクワクしながら寝床に潜っていた」と、兄の人柄を語っている。
物の足りなかった会社設立時も、このもって生まれた手先の器用さとアイデアを遺憾なく発揮し、仮実験室の建設や化学分析に必要なガラス実験器具は自前で作成するなど、ここでも類いまれな職人芸が大活躍する(今、会社の玄関にひっそりある木の看板は氏の手によるものである)。
晩年は、技術部門の相談役として、お得意様、他の同業者への技術指導に力を注ぎ、惜しくも2004年に還らぬ人となった。氏の既成概念にとらわれない工夫や、人への思いやりに満ちた精神は、仕事と人に向き合う時忘れないで受け継いでいきたいものだ。
謝辞
7人の発起人は、1971年12月、名古屋市守山区天子田に(株)愛研を創設しました。この年はまさに、米国のドルショックによる影響で不況が深刻さを増した、そんなときの船出でありました。その後の50年は、順調な時もあれば、1990年代のバブル崩壊に伴う急激な景気後退や、2000年代のデフレ不況など難しい難局を経ながらも、社員は7人から20人、20人から40人と増え続け、現在では、多くのお客様のご支援により、70人ほどの社員となり、今日を迎えることができました。
これもひとえに、パートナー企業の皆様方のご指導とお力添えのおかげと感謝しています。
出典:愛研技術通信合併号2010.9.25:(株)愛研が環境計量証明事業所として歩んできた企業活動の変遷