愛研創業のDNA~はじまり~
愛研の誕生は突然訪れた。
はじめに
日本が急速な経済成長を遂げた1960年代後半から公害問題が一層深刻化するなか、公害対策基本法をはじめとする14の法制度・改正が行われ、1974年には計量法の一部改正により、許認可事業として環境計量証明事業登録制度がスタートした。愛研は1974年2月、県内でもいち早く環境計量証明事業所として認可され、そして2020年12月に満50年目の節目を迎えた・・・・・。
「愛研技術通信第49.50合併号-2010.9.25発行」より抜粋して、弊社のルーツを3回に分けご紹介いたします。
(株)愛研は斯くして誕生した!
中央化学(仮名)は消毒薬や殺虫剤を製造する会社であった。1971年11月、当時の開発部長、工場長、営業・業務課長などの要職に就いていた7人が突然、理不尽な理由により会社を退職することになる。そして彼らは「我々7人なら何かできるはず」と、連日、喧々諤々と議論を重ね前途を模索していた。
何をするかは後回しにして、まずは会社をいち早く立ち上げようということになり、社名と社章(ロゴ)を決めて会社登記を済ませることにした。社名は名簿案内などの最初に記載されやすい「ア行」が良いと考え、「研究を愛する」という意味合いを込めて「株式会社愛研」とした。そして行動を起こして1か月余の12月2日に宮崎初代会長の自宅で鍋を囲んで会社創立を祝った。(それ以降、毎年12月の第一土曜日を愛研創立記念日として全社員参加の祝賀会を開催している)。
会社登記を終えると次は愛研の本拠地探しが始まった。実は、平社(ひらこそ)初代社長の個人的なつながりで日本環境衛生センターから既に毒性試験に供するマウス培養の受注計画があった。そのため、早急に培養飼育室を確保する必要に迫られ、岐阜市の借地に二階建てプレハブ棟を建築した。しかしこの土地周辺はマウス培養飼育室のような迷惑施設(?)は受け入れられない土地柄であることを後日知ることになり、やむなく撤退せざるを得なかった。現在の名古屋市守山区天子田(当時はまだ農地からの転用手続きが終わったばかりで水田の埋め立ても終わっていなかった)の土地を取得し、1972年冬に二階建てプレハブ棟を解体し、本拠地に再建した。つかの間の住まいであったが、一階を事務室、二階を平社の住居とした社屋が完成した。また、懸案であったマウスの飼育実験室は宮崎宅にある別棟の居室を借り受けることができた。
斯くして、初代社長平社俊之助の下、株式会社愛研がスタートすることになった。
経営基盤の仕事探しに明け暮れる
会社という形はできたものの業務方針や見込みは、この段階では何も決まっていなかった。はじめは7人の失業保険と薬剤製造会社の経験を活かし、消臭剤、漂白剤、撥水剤、クレゾール(新幹線トイレの青い消毒剤)、洗剤などの生活雑貨を製造・販売していた。しかし、大手業界の参入等で尻窄みになり基盤事業にならなかった。その他の変わり種としては、乳酸菌飲料、ワラビの漬け物、ウニの塩漬け、キノコ栽培などにも手を伸ばしたが、全く成功しなかった。
基盤事業を模索している間にも、作業場はぜひ必要だということになった。1973年春、支援者から譲り受けた古材を利用し、余った労働力を活かして事務室を自前で建築した(写真1)。
また同時進行で、鉄骨スレート張りの作業場と2階建て実験棟も業者に依頼し建築した。当時の実験室は、おもちゃ箱をひっくり返したような自由な雰囲気に満ちた、大部屋式の古き良き時代であった(写真2)。